【コラム】『SHOWBYROCK!! ましゅまいれっしゅ!! キセキかもしれないレゾナンス』は、夢に向かう人全てへ贈る『人間賛歌』なのかもしれない。【サンリオVfes2025 SummerEdition】

本記事は、『SHOWBYROCK!! ましゅまいれっしゅ!! キセキかもしれないレゾナンス』(略称:キセレゾ)というコンテンツのネタバレ要素をかなり多く含みます。

VRChat内の上演やYouTubeなどでの本編鑑賞後にご覧いただくことを、強く強く推奨します。

また、本記事は筆者による考察の要素がかなり大きいポエミーなコラム記事であり、いちユーザーの解釈でしかないことをご承知おきください。

『Sanrio Virtual Festival 2024』にてパレードとして初公演となったキセレゾは数多くのユーザーの胸に響き、「伝説」とすら表現できそうなほどのインパクトを与えました。

本作品を鑑賞することを「浴びる」と称する方がいたり、「浄化された」と感想をいう方もいます。どうしてそこまでこの作品は人々の心を強く揺さぶるのでしょうか。いち観客目線でぼくがキセレゾを観た時に思った事、感じた事を今ここに綴ります。

#1 ヒロメネス 本パレードの象徴。過去の自分を赦そう。

『SHOWBYROCK!! ましゅまいれっしゅ!! 』のオープニング曲である『ヒロメネス』は、単なる本編アニメのOPにとどまらず、パレード全体のテーマを呼びかけるものだと感じました。

“色褪せる君に手を振り笑う顔「ニッ」”という歌詞は、苦難や挫折を乗り越え、それを糧として今を歩む姿、過去に頑張ったけれどダメだった自分を赦し、抱きしめ、晴れ晴れとした気持ちで明日へと突き進む生き様を描いてたと感じました。

この“色褪せる君“は、過去の自分が思い描いていた憧れや夢の姿、あるいはその時の自分自身を指しているのでしょう。

#2 No problem!! 心が示す先が自分の答え。だから、全問正解。

『茶柱さん』の心の世界にいた音楽の精霊(仮呼称)は、「人とは比べず違った基準の元生きていく」という意味では『ほわん』と似たような思考プロセスをたどっています。その違いは閉じこもってゼロになるか、前に進んで何かをすることでn+1になるか。

この曲は“どんなときもいつも君は笑顔になれる” と呼びかけて、『茶柱さん』の「音楽が好き」という消えかけた気持ちを「No problem!!」と力強く肯定します。これは、“たとえ描いたビジョンに今が繋がってみえなくて心がまた騒いでいても”“君は君のままでいい”というメッセージ。

「人の気持ちが分からなくて怖い、否定されるのが怖い」という『茶柱さん』が不安と恐怖にまみれた状態の中、『マシマヒメコ』から「……離れてみて、どう思ったの?」と心に寄り添われていくことによって次第に心を開き始める様子が描かれています。

そうして本音を吐露していき、それを受け入れられた『茶柱さん』は「ありがとう。ずっと、守ってくれてたんだね。」と、自分の過去の象徴ともいえる音楽の精霊を赦しました。

#3 エールアンドレスポンス 「好き」の原点へと、立ち返る。

明日に、さらにその向こうに夢がかなう場所があり、それを後押ししてくれる。

“キミの夢がかなう場所 ボクらだけの歌がある”という歌詞は、「夢」を二つの意味で捉えてると思います。一つは過去に思い描いていた憧れ、もう一つは今いる地点から自分を信じて進んでいった先の到達点、つまり自分だけの未来です。

“パジャマを脱いだら”というところから「無理して、空回りして、上手くいかなくて」「いつの間にか何が好きなのか分からなくなって」しまい閉じこもった『茶柱さん』の、鬱に近しい状態が描写されているかのようです。

しかし、“つまづく度に あの日の夢が もう一度僕を 奮い立たせる”と気づき、“一人じゃないからここまでこれたんだ”と、話し合い、分かち合うことで、「音楽が大好き」という自分の原点に立ち返ります。

茶柱さんにとっての音楽を楽しくなくさせていたのは、もしかするとそれそのものではなくその外側に生じたバイアスとメンタルノイズなのかもしれません。

#4 プラットホーム 「好き」でい続けるための、孤独な戦いと覚悟。

茶柱さんが『プラットホーム』を歌い始めた時、最初に包んでいた光景は小さな埃っぽいライブハウス。真っ暗な中に一本だけのライトが、ただ茶柱さん一人を照らしていました。

その光景はまさしく、評価もされず見向きもされないかもしれない環境だったとしても、「ぼくは音楽が大好きだ」と自分の好きを貫こうとする茶柱さんの孤独な戦いを示しているかのようです。

ここまで一人で戦って、挫折して、自分を守るための殻に閉じこもって。鬱から立ち直り再び戦うそのとき、茶柱さんはもう一人ではありません。

茶柱さんの心の奥底には、自分の好きを全力で肯定してくれた『Mashumairesh!!』のメンバーたちから送られたエールと、心を通わせて歌ったときに見えた輝きが、きっと今も残っているのです。

だからこそ『プラットホーム』の途中で茶柱さんの周りに「Mashumairesh!!」のメンバーが現れて一緒に歌を届けてくれる演出になったのでしょう。この歌は、いつか訪れる挫折や自分の今歩んでいる一つの形からの別れ、そしてそこからの再起の歌と受け取れます。

プラットホームは「次の駅に向かう電車に乗る中継地点」。次の駅に行くけど、”帰って来るよ 必ず また 会えるように”。上手くいかなくても失敗しても、好きを好きでい続ける自分となる覚悟、形が変わっても変わらない想いを持ち続ける、誓い。何か頑張っていたことと決別しなくてはならないときが訪れたとしても、その時の想いに”さよならは まだ 言わない”と志を残し続けたのなら、それはきっと、いつかふとした時に自分が帰ってくる場所になってくれるでしょう。

帰ってくる場所にもなるし、あの頃とは違った姿になってまた会えるかもしれない。だから、“またこの場所で待ち合わせ 指切りしよう”。やっていることが変わったんだとしても、想いは変わらず、その時の自分の気持ちを自分で否定してなかったのなら、それらは挫折した失敗の記憶じゃなく足跡であり、あなたが描いた軌跡なのです。

“憧れは気が付けば 想い描いていたのとは 違ったけど”いつか辿り着くであろう場所が「そこ」だったりするかもしれないのです。

#5 アノカナタリウム 「好き」に向かい突き進む全てに、祝福を。

『アノカナタリウム』は、形はよくわからない、人からは見えないけれどキラキラしている、自分が強く追い求める「何か」≒”輝ける座標”を指します。それを信じて突き進んだ『ほわん』と、彼女を導き、共に歩み、笑い、悩んできた『Mashumairesh!!』のメンバーたちとの絆の在り方をまさしく体現する曲です。

プラネタリウムが空に描かれた星座(キラキラしたもの)であるように、「アノカナタ」は今は見えないけど信じて突き進む「どこか」。そしてそこから来る『アノカナタリウム』は「自分の好きを好きでい続けられる」自分を持てた、またはこれから持とうとしている人を祝福する歌ともいえるでしょう。

だからこそ “はじまりの鐘 カナタへ響け”という歌詞があるのだろうなと。自分が“大好き”なものに、“ありがとう”を贈る。その姿の煌めきとぼくらがこれから進む道を『Mashumairesh!!』が祝福してくれています。誰かに評価されなくたって(”エンドロールがなくたって”)、「好き」でいることはそれだけでも輝きを放つ素晴らしいことなのです。「キセキなのです。

全体を見て、思った事。

『茶柱さん』の精神世界は一見すると荒廃しているように見えますが、逆さになったギター、ネックが折れたギター、バラバラにされたギターのパーツにあたるオブジェクトがぼくが探してみたところ一つもありませんでした。砂の上にあるのは残骸というにはあまりにも状態がそのままのギターと、破壊されたステージの瓦礫だけ。

しかも破壊されているのは階段のありそうな両サイドだけで、ステージの本体は残っています。これは、『茶柱さん』が心の中ではまた音楽に戻れるように最後の一線を残していることを示唆しています。

「自分が音楽に挑むことが怖い」からステージのうち階段の部分は破壊し瓦礫にしてしまったけれど、自分の側にあり続けたギターやステージの中央はそのまま残しているのです。だから「音楽が好き」なのは変わっていない。「他の人の輝きは見たくない」ので砂に埋めて見えないようにしていた。

でも、ギターを破壊していないので、音楽自体は自身がこんなに追い詰められてしまった後でも大事にしている存在であり続けた。

「やっぱり、音楽が好き」という「ずっと伏せられてきた本音」。実はこれが荒廃した世界の描写を通して最初から伝えられていたものだったのです。だから『茶柱さん』の自意識のひとつともいえる音楽の精霊の方も、「守りたくて」茶柱さんを音楽から「遠ざけて」いたのではないでしょうか。

茶柱さんはステージを破壊しつくしても、それでもまだ立てる部分を残していました。ここもまた、“帰ってくるよ 必ず また 会えるように” ということなのでしょう。

『ヒロメネス』はキセレゾにおいてはただのOPではありません。もしかするとあの曲単体でキセレゾ全体を示している気すらしてきます。

苦難や挫折を乗り越え、糧とし、今を歩む姿、過去に頑張っていたけどそれでもダメだった自分を赦し、抱きしめ、晴れ晴れとした気持ちで明日へと突き進む生き様を表しています。

最初はパレードのテーマとしての登場だったのかもしれませんが、終盤でこのメッセージが『茶柱さん』ひいてはキセレゾを鑑賞しているぼくたちにかかってくるものへと変化した印象があります。

「好き」は誰のため? 「茶柱」は誰に向けて立ったのだろうか?

SNSや各種インターネットサービスの普及により、物心ついたときから反強制的にワールドワイド同世代トーナメントに巻き込まれてしまう現代。好きなものを好きでい続けるのは難しく、環境や他者との比較に由来して挫折してしまう。そうした話は今となっては決して珍しいことではないように感じられます。

だからこそ「好きなもの」があるという事はそれだけで尊く、さらにその想いを人に伝えられることは素敵なことなのです。向いてなくても、人より優れてなくても、好きで、それをしている時間が楽しくて、自分が満たされるなら、ひとまずそれでいいじゃないですか。自分の「好き」は自分の為にあるのですから。

「自分は、周りより優れてもいないし、得意でもないものを好きになってしまった」そんな折れかけて泣きそうな「好き」の気持ちに届いてほしい。「好き」を貫く孤独な戦いの最中、隣に並び立ってくれる煌めいた思い出になってほしい。そうしたメッセージをぼくたちはキセレゾから受け取ったような気がしています。

キセレゾの冒頭で『ほわん』は「茶柱何本立ってたの?」という『ルフユ』からの問いかけに答えて言いました。「全部で6本」と。そこからもキセレゾはぼくたちに向けたメッセージがあるように感じられます。茶柱とは「幸運の象徴」。そんな茶柱は『Mashumairesh!!』のメンバー4人、茶柱さん、そしてこの演出を観たぼくたち自身に立てられているのだと思いました。

茶柱を委ねられた、『茶柱さん』と重なるであろう視聴者のぼくらはこれからの旅路を『Mashumairesh!!』に祝福されているのです。

自分の好きの肯定は、それをずっと好きでいたこれまでの自分自身の存在の肯定でもあるのです。

その時は上手くいかなかった、人から見たらそうなっているだけで、それ自体は間違ってなんかいないんだよ、ダメじゃないんです。それを選んだ自分の意思は、気持ちは間違ってなんかいないんです。

上手くいかなくて、失敗して、傷ついたとしても、その道を辿らなかったら今の自分はここにいないかもしれない。あの失敗があったからこその今の自分がある。そう思える日がいつか、きっとくる。あの頃思い描いた夢に、あの頃思い描いていた道とちょっと違った道をたどって、辿り着けるかもしれない。

自分が好きになったこと。それらのうちどれかがきっといつか自分の軸になる。だから“行こうずっと”。キセレゾを鑑賞している中で、これまで挫折してきた道の数々が「きみがあの時頑張ってたことは決して無駄なんかじゃないよ」と報われていくような感じがしました。

そうしたメッセージを描いているキセレゾは、もしかすると『人間賛歌』なのかもしれません。好きなことに全力で向かっていても上手くいかない現実に悩み、”躓く度に「あの日の夢」がもう一度ぼくを(自分を)奮い立たせる“でしょう。

「これは、誰にでもおこる、とてもありふれた、私たちだけの物語……。」

また今日もお互い、それぞれの物語・それぞれの戦場で頑張っていきましょう。自分の「好き」を貫くための、孤独な戦いを。

きっと『Mashumairesh!!』は、そこにエールを送ってくれると思います。ほら、茶柱が立ってますし「良い事ありそう」ですよ。

投稿者プロフィール

ゆーてる
ゆーてる広報部隊長(元二代目編集長)
楽しいこと、誰かが頑張ってる姿を見ることが大好きなVRライターです!
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