どうも、バーチャル世界で自分の存在のみを貸し出すVRCなにもしない人という活動をしている伊達焼き屋です。
普段はゲームワールドの人数合わせ、一人だと行きにくいイベントの同行、話し相手など「存在貸出依頼」として受けながらバーチャル世界をなにもしないで生きています。
各VRプラットフォームをうろついて、そこにいる人達と曖昧に接触してそこから得た知見や発見を気が向いた時文章に起こしてバーチャルライフマガジンさんに寄稿しています。
今回は孤独という概念について。孤独に恐怖する人と孤独を渇望する人と交信して得た”思いつき”をツラツラと書き連ねていく。
では本編。
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「ひとりになるのが怖い」と相談がたまに届く。
仲良しグループから外れるのが何より怖い。周りから置いてけぼりにされるのが怖い。その輪の内側に居られないくらいなら自分が多少傷ついてしまっても構わないと言い切ってしまうほど、孤独という得体の知れないモノに恐怖する人がいる。
それと同時に「ひとりになるにはどうしたらいいか」なんて真逆の相談も届く。
一つのグループに入り浸りすぎて他の事が疎かになってしまう。たまには他グループとも交流したいが訳あって身動きが取りにくい。この息苦しさから解放されたい。一瞬でもいいから外の空気を吸いたい。
世の中にはお金がありすぎて困っている人もいればお金が無さ過ぎて困っている人もいる。
過ぎたるは及ばざるが如しの言葉の通り、多すぎるのは足りないのと同じくらい良くない。
これは喜ぶべきか悲しむべきか分からないが、僕はひとりになるのがそれなりに好きだ。あえてひとりになれるような選択を取ることが多い。”VRCなにもしない人”は伊達焼き屋という人間ひとり分の存在のみを貸し出すサービスなので、むしろひとりでいつづけるのが仕事といっても過言ではない。
『好きなことして生きていく』が叶うのならばyoutuberでも芸能人でもなくひとりで生きたい。
…まぁ出来ないんですけど。人という字はお互いにお互いを支えあって出来てますし、現にここでコラムを書かせてもらえているのもバーチャルライフマガジンの編集長や読者の皆さんなど、どう考えたってたくさんの人に現在進行形で支えられてるんだなと痛感しています。いつもありがとうございます。
人はひとりでは生きていけない。でもひとりになりたい。
どうしようもない矛盾をどうしていこうか考えていこう。
二種類のひとりぼっち
ひとりぼっちは「物理的ひとりぼっち」と「精神的ひとりぼっち」の二種類に分けられる。
この二つを端的に表した有名な曲があるので歌詞を一部引用する。
都会の人ごみ 肩がぶつかって ひとりぼっち
果てない草原 風がビュンビュンと ひとりぼっち
どっちだろう 泣きたくなる場所は
2つマルをつけて ちょっぴりオトナさ
微笑みの爆弾 歌:馬渡 松子 作詞:リーシャウロン 作曲:馬渡 松子
名曲ですね~。
では歌詞に出てきた二パターンのひとりぼっちをそれぞれ解説します。
「都会の人ごみ 肩がぶつかってひとりぼっち」が精神的ひとりぼっち。溢れかえるくらいたくさんの人はいるのに心通わせている人、頼れる人が全く居ないという孤独感。
「果てない草原 風がビュビュンとひとりぼっち」が物理的ひとりぼっち。辺りを見渡しても人っ子ひとりいない孤独感。
二種類のひとりぼっちには距離間が関係している。
精神的ひとりぼっちは自分と周りの人間にはなんの繋がりもない心の距離間で、
物理的ひとりぼっちは自分以外誰も見当たらない肉体の距離間を指す。
心か肉体、二つの距離間を見誤ると人は孤独になる。ひとりぼっちだと感じる。
つまり孤独とは距離間のことなのだ。
距離間と併せてもう一つ重要なことを書いてこのコラムを締めたい。
ステキな孤独
「ひとりが怖い」「ひとりになりたい」と悩む人はおそらく孤独との距離の置き方を忘れてしまったんだと思う。自分の孤独がどこにいるのか一歩俯瞰してみるところから始めてみよう。
最も大事なのは「思い出すこと」だ。一度でいいからウンと離れた場所に身を置いてみる。
そこから少しづつ近づきながら体や心の距離間を思い出していく。ピントを合わせる様にゆっくりでいいから、ぼやけている視野がクリアに見えるポイントを手探りで思い出す。
今立っている場所から離れるのは少し勇気がいるかもしれないが、ピントを合わせる為一歩づつ近づいていくのだからあまり気にしなくていい。ピントが合う位置を思い出す。その手順を踏む為に一旦距離を置く。
某魔法少女アニメのセリフをわざわざサブタイトルに持ってきておいて言うのも無粋だが「ひとりぼっちが寂しいとかお前が決めんなよ!」と思ってしまう。ひとりになりたい時はある。とにかく今の場所から距離を置きたい時があるんだって。
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5.7.5という型がある俳句に対し、そのルールに縛られず文字通り自由に作られる自由律俳句というのがある。
その中でも有名な「咳をしても一人」という俳句。国語の授業で習った人も多いのでは。
「息苦しく咳をしているが俺には看病してくれる人も心配してくれる人もいない。この部屋で俺は独りなんだ。」といった少し悲しいニュアンスの解釈が一般的だが、僕はむしろ孤独であることをよく噛んで味わっているような感じがする。
「一人は寂しいな~」とか「一人だから気が楽だな」とかそんな俗世な所はとうの昔に通り過ぎてて、事実として”孤独”がドンとある。それを真正面から捉えた精神力の強さやある意味の悟りをこの句から感じる。
SNS疲れが叫ばれる昨今。インターネットの発達で僕らは物理的な距離を吹っ飛ばして四六時中他人と曖昧に繋がれるようになった。バーチャル世界もまた然り。コントローラーの充電が続く限り、明日の仕事に支障が出ない限りは好きなだけ他人と交流してもいい。
“してもいい”と書いたのは、僕が掲げる思想「バーチャル世界は全て選択できる世界」であることを全面に出した言い回しだ。
友人と夜更かししながらワイワイ交流するのも静かなワールドでゆっくりと時間を過ごすのも全てあなた自身があなた自身に従って選択すべきだ。
同じ空間にいるからといって必ず会話をしたりスキンシップをしなくてもいい。プライベートな領域、踏み込んでいいラインというのはその人の価値観や体調で大きく変動する。肉体的な部分はもちろん心の距離でもそれは同じ。
先述した通り孤独はただの距離に過ぎない。ピンボケしない程度の適切な距離をまず知る事。それが孤独を思い出させ、孤独を愛せるようになる第一歩だ。
ひとりぼっちを愛する事とは、究極的に自分を愛する事だと思う。
最後まで読んでくれてありがとうございます。
ではまた次回。