かつて在りし巨大建築から見るデザイン、文化、そして葛藤。「The World Trade Center」

本記事には一部暴力的・宗教的な内容についてのテキストが含まれています。
本記事の主題とは直接関係ありませんが、ご覧の際にはご注意ください。

かつて、ニューヨーク市、ロウアー・マンハッタンには二つのビルが屹立していました。
ワールドトレードセンター/世界世界貿易センター(以下WTCと呼称します)と呼ばれたその建築は、2001年9月11日、イスラム過激派テロ組織アルカイダの構成員によってハイジャックされた、アメリカン航空11便、ユナイテッド航空175便の2機の飛行機がビルに突入し、2,996人の人命と共にこの世から姿を消すことになります。

そんなWTCをVRChat上に再現したワールドが、今回訪れた「The World Trade Center」
ニューヨークやマンハッタン、延いてはアメリカ、資本主義の象徴であった建築と、その設計者に思いを馳せ、ピラミッド以来最大とさえ言われた建築のデザインを紐解いていきます。

圧倒的な巨大建築

それでは早速、このワールドの紹介に移っていきましょう。


まず、ワールドに入ると大きな広場にスポーンします。正面にはツインタワーが聳え立っていますね。やはり110階にもなる高層建築は迫力が凄まじいです。全く画角に収まりません。内部までしっかりと作り込まれている訳ではないとはいえ、実寸に近いサイズ感で作られた100階超えの建築物は、VRChatでもなかなか見る機会がない気がします。威圧感や圧迫感を覚える方もいるのではないでしょうか。

また、WTCは前後左右がそれぞれ若干ずれた位置に配置されており、綺麗に横並びになっている訳ではありません。マレーシアのペトロナスツインタワーや東京都庁などの著名なツインタワーは下層階がつながっていたり、渡り廊下が設けられていたりしますが、WTCは完全に独立した二つのタワーであるがゆえにこうしたデザインになっているのでしょう。このようなデザインが採用された背景には、設計者の「見る位置によって表情が移り変わるようなツインタワーにしたい」という意図が反映されています。微妙なずれが設けられていることによって、見る角度によってタワーの重なりが変化し、外観が単調にならないように工夫されているんですね。巨大なビルに施された繊細なデザインが垣間見えます。


そして、ビルとビルの間の広場には噴水やステージなどが設けられています。きっと当時はここが金融街で働くオフィスワーカーの憩いの場となっていたのでしょう。ステージなどもあり、ここで音楽ライブなども開催されていたことが伺えますね。

ビル内部はエントランス部分のみが作られており、上層階などに行くことはできません。
しかし、エレベーターを使用すれば屋上には上がることができ、そこからはマンハッタンの街を一望することができます。遠方には微かに自由の女神像のようなものも見ることができます。

実際のWTCでも北棟107階に「Windows On The World」という展望レストランが設けられていたようで、他の階よりも天井高が高く設計された開放感のある空間だったそうです。マンハッタンを一望しながらの食事はなんとも贅沢ではありますが、こうも高い場所で落ち着いて食事ができたんでしょうか…。

WTCとは何だったのか。

本ワールドに来ればWTCの大きさが身に染みてわかるのですが、それ以上に、このWTCビルが「ただの大きな建築物」以上の文脈を含んでいることは言うまでもないでしょう。

WTCはマンハッタンのシンボルであると同時にアメリカのシンボルでもありました。それは数多くの映画などからも伺い知ることができます。例えば、映画「キング・コング」では巨大なコングがヒロインを片手に持ち、ビル上り詰めるシーンが非常に有名な訳ですが、WTCが完成する前、1933年に公開された「キング・コング」の撮影地となったのはエンパイア・ステート・ビルディングでした。しかし、1976年に公開されたリメイク版では撮影地がWTCに変更され、ポスターにもツインタワーに跨り、ヒロインを片手に戦闘機を握りつぶすコングが描かれています。このポスターは非常に好評で、公開当時は約2万5000枚もの注文があったそうですよ。

キングコング(1976)の日本版映画ポスター
映画.com(https://eiga.com/movie/60025/photo/)より引用

他にも、ドナルド・トランプ前大統領がカメオ出演したことでも有名な「ホーム・アローン2」では、家族旅行に行く途中、一人だけ飛行機を乗り間違え、ニューヨークに到着してしまった少年ケビンがWTCの屋上から街を見下ろすシーンがあり、作品の舞台であるニューヨークという街を視聴者に強く印象づける、象徴的な建築物の一つとしてWTCが描かれています。

また、WTCは街や国を代表する建築物であると同時に、アメリカの繁栄と資本主義そのものを象徴する建築であるという側面を持っていたという見方もできます。
マンハッタンは「ウォール街」と呼ばれる区域で知られるように、ニューヨーク証券取引所や大手証券会社が軒を連ねる金融街であり、世界の金融の中心地であることで有名です。そして、かつてのWTCはそのマンハッタンの象徴でした。WTCには大手金融機関や世界的に有名な企業が多数入居しており、日本企業からも、住友海上火災保険、日興証券、あさひ銀行(現在のりそな銀行)、安田火災海上保険など、戦前から日本経済に強い影響力を持っていた旧財閥系と呼ばれる企業や都市銀行をはじめとした大手金融機関が多数入居していました。
WTCが9.11アメリカ同時多発テロ事件の標的として選ばれてしまったのも、WTCがアメリカ社会や世界経済、資本主義を象徴するものであると捉えられていたことが一因となっているでしょう。

WTCを設計した日系人

さて、ワールドと再現元となった建築物の概要はこのくらいにして、WTCのデザインについて詳しく掘り下げていきたいところですが、WTCのデザインについて解説するためには、まずこの巨大建築を設計した建築家について紹介しなければなりません。
アメリカ同時多発テロ事件を通じて、WTCについてはご存じの方も多いのではないかと思いますが、その設計者のことは意外と知られていないのではないでしょうか。
WTCを設計したのは建築家はミノルヤマサキという人物です。名前を見ての通り、彼は日系人でした。アメリカに移住した富山県出身の父と、東京都出身の母を持つ、所謂「日系2世」の建築家であり、彼自身はシアトルのスラム街で生まれました。

彼が建築家として活動し始めた頃は、太平洋戦争の直前であり、当時はまだ日系人への差別が非常に強い時代でした。彼自身も自らが日系人であることに強い劣等感を感じており、とある建築専門誌でのインタビューでは「私は人生に秩序というものを与えることができなかった。何かが欠けていると感じそれを探し求めてきた。しかし、誰しも劣等感は感じているものだ。胃潰瘍が私に自分の劣等感が何だったのかを教えてくれた。それはつまり、私が日本人であるということだ」と語っています。こうした過酷な環境にありながら、時には建築の仕事を得ることができず、アラスカの鮭缶工場で働いていた時代もあったそうですが、それでも差別闘い続け、そして後にアメリカを象徴する建築となっていくWTCを設計するに至るわけです。
また、戦時中のニューヨークでは、日系人の人権保護活動のため、著名な芸術家たちが集まり「アメリカ統一同盟」という会が結成されたのですが、ミノルはその会の副会長であったそうです。なお、その会には照明器具の「AKARI」シリーズや、EXPO’70大阪万博の彫刻噴水、北海道のモエレ沼公園など数多くのな作品のデザインで知られる彫刻家のイサム・ノグチも在籍しており、ミノルとは親交が深かったようです。クリエイター達の意外なつながりがあるものですね。

イサム・ノグチが生んだ光の彫刻、AKARI
イサムノグチの代表作の一つであるAKARI。
d-department(https://www.d-department.com/item/AKARI.html)より引用

なぜ日系人がWTCを設計するに至ったか

当然、WTCほどの大きなプロジェクトです。最初からミノル・ヤマサキが設計者として確定していた訳ではありませんでした。当初、WTCプロジェクトの候補には約40人もの建築家が挙げられていた時期もあったようです。
ではそうした状況の中で、何故日系人であるミノルが設計者の座を勝ち得たのでしょうか。
それは彼の人柄によるところが大きかったと当時の港湾局副局長であったリチャード・サリヴァンは回顧しています。
WTCは巨大なプロジェクトであるがゆえに、非常に多くの人が携わっているうえ、機械設備や電気設備、構造設計など、非常に数多くの制約の中で設計していくことが求められる仕事でした。そんな中、彼は非常にレスポンスがよく、他の経験豊富な建築家に比べて、まだ中堅建築家であった彼はプライドが高くなく、クライアントである港湾局と良好な関係を築きやすい人物でした。更に彼の日系人であり、差別と闘いながらも建築家としての道を歩む姿が、港湾局の当時の雰囲気とよくマッチしていたことも一つの要因だったようです。

WTCの設計者に選ばれたことの影響

WTCの設計者となったことによって、ミノルは世界中の注目を浴びることになります。
1963年には、1923年の刊行以降、世界初のニュース雑誌として知られる「タイム」の表紙を飾るなど、メディアへの露出もこれまでとは比べ物にならない程増えていたことが見て取れます。
なお、このタイムの表紙を日系のアメリカ人男性が飾ることは初めてのことだったようです。当時は日本人が表紙になること自体非常に珍しく、表紙に掲載されたことのある日本人としては東郷平八郎元帥、山本五十六連合艦隊司令長官などの軍人や、犬養毅をはじめとする政治家、昭和天皇などの国家運営の重要人物のみであったことを考えると、ミノルが表紙に選ばれたことが建築界にいかに大きな衝撃を与えたか想像に難くありません。

Picture
1963年1月18日刊行のTIME誌
Daniella on Design(https://daniellaondesign.com/blog/born-on-december-1st-minoru-yamasaki/)より引用

また、その影響は私生活にも大きな影響を与えます。ミノルは建築家として活動し始めて間もないころ、会員制の高級ゴルフクラブに入会しようと試みましたが、日系人であることを理由に入会を拒否されていました。しかし、タイムの表紙を飾ったとたん、今度はクラブの方から入会してもらえないかという招待が届いたそうです。このように、WTCの設計者となったことによって彼を取り囲んでいた差別にも変化が見られるようになっていました。ちなみに、この入会への招待に対してミノルはクライアントを楽しませたいという理由で入会を決めたそうですが、そうしたところからも彼の性格が読み取れるような気がしますね。

ビルの外観に注目してみよう

無数の金属製の柱に注目

では、改めて、そんな日系人建築家ミノル・ヤマサキが設計したビルとはどのようなものであったか見ていきましょう。
やはり注目すべきはビルの外周に配置された無数の細い金属製の柱でしょう。この柱たちによって、WTCの端整な外観は形作られており、言うなればこの柱たちはファサードを形作るアイデンティティであるわけです。更に、ミノルは光と影のコントラストが美しい建築を得意とする建築家だったのですが、この細い柱たちが作り出す影は非常に美しく繊細な空間を建築内部に作り出し、オフィスワーカーたちの快適な執務空間を作り出すことができました。

Michigan Architectural Foundation
ミノルが設計したマクレガー記念会館。美しい光と影のコントラストが見て取れる。
Michigan Architectural Foundation(https://michiganarchitecturalfoundation.org/buildings/mcgregor-memorial-conference-center/)より引用


しかし、この柱はただ美しいデザインのためだけに設置されたものではありません。そこには機能的な必然性があったのです。
そもそも、WTCはオフィスビルであり、スペースを企業に貸し出すことによって賃料を稼ぐ必要があった訳です。そうした中で、当然クライアントである港湾局はビルにより高い収益性を求めました。要は、限られたスペースの中で、より広く貸し出すことのできる空間を確保しようと目論んだ訳です。そうなると、内部空間の柱は非常に邪魔な存在になってきます。
エンパイア・ステート・ビルディングをはじめとする、これまでのビルは一般的にラーメン架構と呼ばれる、均等な感覚で柱を配置し、それを梁でつなぐ構造を採用するのが一般的でした。しかし、この構造では内部空間に多くの柱が露出してしまい、内部空間は少なくなりますし、家具などを配置する際にも柱の配置に制約を受けてしまいます。
一方で、WTCでは外部に柱を集中的に配置し、この柱によって建築物の荷重の大部分を支える構造になっているため、内部の柱の数を減らすことに成功しています。実際に、WTCはビルの内部のコアと呼ばれる、エレベーターシャフトや階段、電線や空調などを通すパイプシャフトなどが集中した部分に配置された47本の柱と、外周に配置された240本の柱によってビルのすべての荷重を支えており、オフィス部分には柱が存在していません。
こうした構造はチューブ構造と呼ばれ、以降高層建築では広く採用される構造になっていきます。見た目も美しく、なおかつ機能的な蓋然性のある設計になっており、とても合理的なデザインであると言えるでしょう。

「いいデザイン」ってなんだろう。

ここで少し「デザイン」というものについてお話させていただきたいのですが、一般的に、デザインの世界においては、見た目が美しいだけで良いデザインと認めてもらうのは難しいです。
というのも、デザインには常にそれを受け取る人と、その目的があるわけです。例えば建築ならばその内部で活動する、モノ(プロダクト)なら使う、ポスターやロゴなどのグラフィックなら、必要な情報やイメージ、雰囲気を見た人に伝える。といった感じですね。つまり、その目的を満たせていなければ、どれだけ見た目が美しくてもよいデザインにはなり得ないのです。

ミノル・ヤマサキも、建築とは、見て美しく、触れて優しく、人の心を打つような人に優しいものでなければならないと言っており、見た目が美しいだけではなく、その内部で人々が快適に過ごすことができなければならないものであると考えていました。その上、更に今回はクライアントである港湾局から高い収益性という別の目的も要求されていたわけです。この外周の柱はそういった複数の目的を同時に解決するアイデアであり、彼の人柄やデザインに対する意識を感じることのできる非常にいいデザインであると言えますね。

メガストラクチャーとヒューマンスケール

ヒューマン(人間的)・スケールとは

港湾局がWTCに高い収益性を求めたことは先述の通りなのですが、そこで要求されたのは柱のない広々とした内部空間だけではありません。賃貸面積を確保するために、WTCは当初の予定よりも大幅に高層化したものになっていったのです。WTCは110階建てであったと本記事の冒頭で書きましたが、初期の案では80階程度のビルが想定されていたようです。
当初よりもビルが大幅に高層化していくことによって、WTCはヒューマンスケールを逸脱していくことになります。このヒューマンスケールというのは建築や空間デザインにおいては重要な考え方であり、人間の活動に適したスケール感といった意味合いの言葉です。

かつて、近代建築の巨匠とされるル・コルビュジエはこのヒューマンスケールを模索する中で、レオナルド・ダ・ヴィンチのウィトルウィウス的人体図から人体の中に黄金比を見出し、その比率を建築空間に拡張して建築を設計しようと考えました。このコルビュジエが考えた寸法システムのことをモデュロールといい、ロンシャン礼拝堂など、彼の代表的な作品の多くにその法則が組み込まれています。また、日本においても丹下健三という建築家がその寸法システムを日本人のサイズに落とし込み、日本人のための丹下モデュロールを作成したうえで東京都庁の天井高を設計しました。

ウィトルウィウス的人体図 レオナルド・ダ・ヴィンチ作
黄金比を用いて人体の理想的なプロポーションが描かれています。
Artpedia(https://www.artpedia.asia/vitruvian-man/)より引用

批判の的となったWTC

このように、建築は人間い寄り添ったスケールであるべきであるという考え方は非常に一般的なものであり、多くの建築家たちが最適なスケール感を求めて研究を重ねてきました。
勿論、見て美しく、触れて優しく、人の心を打つような人に優しい建築を目指してきたミノルもこのような考えを持っていたことは言うまでもありません。更に、彼は自身のデザインに強いこだわりとプライドを持っていました。しかし、クライアントである港湾局との協議を重ねる中でビルは90階、100階と徐々に高層化を余儀なくされていきます。
人間的なスケールを逸脱した建築は、人間に優しい建築を目指したミノルの意図とは逆に、人間性を欠いた作品であるとの批評を浴びることになります。
美術・建築評論家のウルフ・ボン・エカートは「私たちはタワーの醜さから逃れることはできない。今日人類が構築した最も高いビルは、人類が造り出した素晴らしい高層ビル・コミュニティを脅かす存在になっている。百十階建ての塊はぶっきらぼうで優雅さを欠いた粗野な姿をマンハッタンの西の端に晒している。その姿は支えることのできない大きさと傲慢さで傾くかのようだ。」とWTCを酷評しています。また、ニューヨーク・タイムズ誌も、WTCをニューヨークの街を脅かす害悪なものであると酷評し、外周を取り囲む金属製の柱についても、「心ないステンレス・スティールや冷たいガラス、古い虫歯の色をした輝くマーブルでできており、世界で最も冷たい」などと批判しました。

このワールドに入ったとき、筆者もビルの大きさに圧倒されるような印象を受けましたが、同じように当時のニューヨーカーたちはWTCに圧倒され、それによって何かネガティブな感情を抱いていたのかもれません。

調和を目指した庭園

WTCに批判が殺到する中でも、ミノルは建築に人間性をもたらそうと考えていました。
そしてその希望はビルの間にある広場に託されていきます。というのも、ツインタワーが竣工してからも、広場は建設中だったのです。
ミノルはWTCの批判記事を書いた記者に、「私は傲慢さから高いビルを建てたのではなく、地上にたくさんのおスペースを作るために高くしたのです」と反論の手紙を送るなど、広場の完成に期待を寄せていました。
この庭園というのはミノルが非常に重要視していた建築の要素の一つであり、彼は自身のほぼすべての作品に大なり小なりの庭園や広場を設けています。
というのも、ミノルは日本の伊勢神宮や桂離宮などから強い影響を受けており、日本の建築物を「自然の中に完璧に彫り込まれたような建物だ」と評しています。ミノルにとって庭園とは自然と建築、そして人間の間に調和をもたらすことができるものだったんですね。
また、日本の庭園や障子、床の間といった繊細なデザインは彼に強い感動を与えたようです。
彼の建築に施された繊細な意匠のルーツは彼の日系人という人種的なルーツと結びついていたのかもしれません。

ミノルは庭園が人々が集まり、活動する場になると期待を寄せていました。しかし実際には、この広場には強いビル風が吹きつけるうえに、冬は寒く、夏は暑いという非常に過ごしづらい環境だったようです。
VRChatワールドの広場にはベンチや花壇、野外ステージなどが設置されていますが、これらは後から設置されたものであり、広場が想定していたような空間にならなかったことによる焦りから設置されたものだったようです。


余談ですが、池の中央にある地球儀のような彫刻作品はドイツ人彫刻家、フリッツ・ケーニッヒの「ザ・スフィア」という作品だそうですよ。現在はWTC跡地に隣接するリバティ・パークという公園に設置されているようですね。

美しさの再評価

このようにWTCは完成してからしばらくの間はそのあまりの巨大さが与える冷ややかな印象から、非常に厳しい評価を下されていました。しかし、次第に先述の「キングコング」の撮影などを経て話題を集めるにつれ、市民たちはWTCをニューヨークの象徴として受け入れるようになっていました。また、その高さは人々を無謀な挑戦へと駆り立て、南棟と北棟をワイヤーでつなぎ綱渡りをする人や、ロッククライミングでビルの登頂に挑戦する人、しまいにはパラシュート降下によってビルから飛び降りつ人など、命知らずな挑戦者たちがWTCには集まり、そうした人々が度々話題に上がることでWTCは市民たちから面白い場所として認知されるようになっていったのではないかという考えもあります。
また、建築家たちの間でも、WTCの繊細なデザインに彫刻的な価値が見いだされるようになっていったことで、次第に評価が覆っていくことになります。ミノルが最後まで目指した、繊細で美しく人にやさしいデザインは完成からしばらくの時を経てようやく人々に伝わっていったんですね。

ミノル・ヤマサキのデザインのルーツ

インダストリアルデザインとのつながり

WTCの外周に採用された240本もの金属製の柱は当然工場などで大量に生産されたものであり、工業的に大量生産された既製品を建築に積極的に取り入れていこうという姿勢は、モダニズム建築と近いものがあるように感じます。実際にミノルはモダニズム建築の巨匠であるミ―ス・ファンデルローエと親交があったそうですし、時にはミ―スを「心の師匠」と呼ぶこともあったようです。
※モダニズム建築と巨匠ミ―ス・ファンデルローエについては、以前寄稿させていただいた拙稿にて詳しく解説していますので、よければそちらをどうぞ。


また、ミノルが自身の作品にこのような工業的な手法を多用したのには、こうしたモダニズム建築からの影響だけではなく、彼の少し特殊な経歴が関係していました。
というのも、ミノルは1944年からの1年間、インダストリアルデザイナーのレイモンド・ローウィのもとで働くことになります。ローウィはインダストリアルデザインの草分けともいわれる非常に有名なデザイナーで、石油販売業の「シェル石油」や、菓子メーカーの「ナビスコ」、「不二家」といった有名企業ののロゴデザインや、タバコの「ピース」や「ラッキーストライク」のパッケージデザインなど、現代でも街中で見かける数多くのデザインを遺した巨匠です。
グラフィックデザインだけでなく、彼は他にも機関車や音速旅客機「コンコルド」の機内インテリアデザインなどを手掛けており、その多様性は”口紅から機関車まで”と言われています。
ミノルがローウィのもとで働いた期間は非常に短いものでしたが、この1年間で得た工業デザイン的な視点は彼の今後のデザインに大きな影響を与えていくことになりました。

20世紀工業デザインの巨匠、レイモンド・ローウィ:画像ギャラリー
レイモンド・ローウィによる代表的なグラフィックデザイン
WIRED(https://wired.jp/2008/11/07/raymond-loewy-photo-gallery-5/)より引用

イスラム建築とのかかわり

ミノルはイスラム建築からも多大な影響を受けていました。インドに旅行した際に見たタージマハルに強く感動し、その繊細なデザインを自らの建築にも盛んに取り入れるようになっていったのです。WTCやマクレガー記念会館など、彼が設計した建築は、ミ―スをはじめとするモダニズム建築の巨匠たちが設計した建築物と比較してみると、非常に装飾的であることが分かると思います。モダニズム建築の特徴である、工業的に大量生産された部材を繰り返し使用することで、合理的に建築を設計しつつ、パターン化された美しさを演出するという姿勢は踏襲しつつも、彼自身はイスラム建築のような繊細で美しい建築を目指していたんですね。
イスラム建築の特徴のひとつに、アーチ型の構造を多用するというものがあります。
例えば、スペインにある世界遺産、アルハンブラ宮殿はイスラム建築を代表する建築ですが、アーチ構造が至る所に採用されていることが分かります。

アルハンブラ宮殿、コマレス宮とアラヤネスの中庭
https://tabishu.com/travel/europa/alhambra/)より引用

ここで再度WTCの柱を見てみましょう。柱は三つ又に分かれて上空へと伸びており、低層階の部分だけ切り取ってみると、アーチのような形をしていることが見て取れると思います。このようなアーチ状のデザインはいかにも装飾的で、モダニズム建築の合理性とは乖離しているように感じられますが、あえてこうしたデザインが取り入れられているところからもミノルがイスラム建築から影響を受けていたことが感じられますね。


また、WTCのビルとビルの間の広場は、日本建築だけでなく、イスラム建築からも影響を受けていたようです。アルハンブラ宮殿やタージマハルなどにも、美しい庭園と池が設置されていますよね。

また、ミノルは1959年にサウジアラビアの空港を設計しており、アラビアのモスクのデザインを踏襲したその空港が国内で非常に好評だったことや、ミノルの代表作であるWTCがイスラム建築を彷彿とさせるものであったことから、サウジアラビア政府は彼を非常に気に入り、のちに数多くの建築の設計を依頼することとなります。

イスラム建築から影響を受け、そしてサウジアラビアの発展に貢献したミノル。そんな彼の代表作品であり、イスラム建築の意匠を取り入れたWTCがイスラム過激派テロ組織の攻撃によって崩壊するというのは何とも皮肉なものですね。

また、ミノルの死後もミノルの設立した事務所はサウジアラビアで建築の仕事を多数請け負うこととなるのですが、SBGという現地の大手建設会社が建築資材を提供することもあったようです。このSBGというのはサウディ・ビンラディン・グループの略称であり、その名の通り王家の遠縁であるビンラディン一族が経営する企業です。9.11アメリカ同時多発テロ事件の首謀者であるオサマ・ビンラディンもこの一族のメンバーであったことが知られています。

まとめ

以上が本ワールド「The World Trade Center」とそのモデルとなったWTCの解説になります。
本ワールドがただのかつて存在した建築のデジタル・アーカイブではなく、非常に多くの文脈を背負った作品の記録であることが伝わっていれば記者冥利に尽きる限りです。

かつて、差別と闘いながら激動の時代を生き抜き、世界的な建築家へと上り詰めたミノル・ヤマサキは、WTCに希望を見出しました。また、小説家の宮内悠介は短編「ロワーサイドの幽霊たち」で「ビルとビルの間にあるのは、空白ではない。過去ではない。貿易センタービルの佇まいは変わらない。しかし、そのあいだに見える街は、時代とともに変化していく。言うなれば、そこにあるのは未来なのだ」と綴っています。
是非一度、ビルの間には何があるのかを感じに、本ワールドを訪れてみてはいかがでしょうか。

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主要参考文献・引用元

「9.11の標的を作った男 天才と差別ー建築家ミノル・ヤマサキの生涯」
飯塚 真紀子著 講談社(2010)

「世界貿易センタービル 失われた都市の物語」
Angus Kress Gillespie著 秦 隆司訳 KKベストセラーズ (2002)

「ヨハネスブルグの天使たち」
宮内 悠介著 ハヤカワ文庫 (2015)