VRChatで本格現代アート体験!「Refusave」

こんにちは。突然ですが皆さんはVRChat内で普段どのようにお過ごしですか?
雑談をしたり、ゲームをしたり、音楽イベントに行ってみたり…。人によって無限の楽しみ方ができるVRChatですが、たまにはVRでアート鑑賞なんていかがでしょうか。
今日紹介するのは「Refusave」VRならではの本格的な現代アートが体験できますよ!

※作品のレビューについては、あくまでも筆者が感じたことであり、ワールド制作者の方の意図とは関係ありません。現代アートの受け取り方は自由で、正解はないので、許してね…。

現代アートの世界へGO!


ワールドに入って、視界の点滅などの諸注意に同意すると、最初にエレベーターの内部にテレポートします。どこに着くのかな~と思いながらドアが開くのを待っていたら、突如画面が暗転。
気が付けば立方体が無造作に置かれ、配線が縦横無尽に張り巡らされた真っ白い空間に立っていました。



見るも無残なエレベーター…。どうやって生き残ったんでしょうか…。

衝撃的な始まり方に動揺しましたが、気を取り直して進んでいきましょう!


ところで、ここの道は落ちそうで怖いですね…。この細い道を越えればいよいよ作品の展示空間です。


まず最初に見えてきたのは、木…でしょうか?木といっても葉は針金のようなもので作られているような感じで、その周りには石のようなものが浮かんでいますね…。

このような空間全体を作品として鑑賞することができる芸術作品を「インスタレーション」といいます。作品空間に入り込むことができるので、絵画や彫刻などの芸術作品に比べると、非常に高い没入感が得られますね。視覚情報と聴覚情報を現実の世界から切り離し、仮想空間に入り込むことを前提としたVR技術と親和性の高い展示方法であると言えるでしょう。

※インスタレーションについて、更に詳しい解説が読みたい方はこちらをどうぞ。
インスタレーション – 美術手帖

そしてとにかく白い…。空間に配置されているすべてのものが白いです。

言われてみれば現実世界の美術館も白い壁が多いような気がしますよね…。実は美術館の空間が全体的に白を基調としているのには理由があるんです。

そもそもなんで美術館って真っ白なの?

美術館の展示空間は、一般的に白い壁に覆われていることが多いのですが、こうした空間をホワイト・キューブと呼びます。

※ホワイトキューブについてはこちらを参照
ホワイト・キューブ | 現代美術用語辞典ver.2.0 – アートスケープ

こうしたホワイトキューブが一般的になった背景には、美術品や絵画そのものの価値の変化があります。
かつて美術品というものは大富豪やコレクター、のコレクションとして、邸宅などに所狭しと並べられるものでした。そうした状況において、絵画をはじめとした芸術作品の価値は、所有者の権威や裕福さ、コレクションに対する熱意などを誇示するためのツールであったわけです。しかし19世紀以降、芸術作品が持つ作品そのものの美術的、歴史的価値を評価する価値観が一般的になるにつれて、一つ一つの作品を中立的な立場で鑑賞できる空間が求められるようになっていきました。
絵画を中立的な立場で鑑賞するためには、作品鑑賞の妨げとなるノイズを除去しなければなりません。そのためには、絵画作品は隣接する作品と一定の距離を置いて展示することが求められますし、その絵画と絵画の間に見える建築物の壁面からは、余計な装飾や意匠を排除すべきでしょう。

こうした考えを突き詰めた結果が、この「ホワイトキューブ」であり、現代の美術館で一般的に採用される展示空間となっているのです。

ニューヨーク近代美術館 AXIS Web Magazineより引用
https://www.axismag.jp/posts/2019/10/149775.htmly

また、こうしたホワイトキューブは、作品を鑑賞するために作られた空間であり、どのような作品でも展示することができるニュートラルな空間です。それゆえに、ホワイトキューブ内ではそこに配置された物体が全て美術品に見えてくるという効果が発生します。

例えば、灰皿や消火栓などは一般的に建物に備え付けられることの多い備品ですが、そうしたオブジェクトさえも、ホワイトキューブにおいては何かしらの意図を持った芸術品の様に見えてきて、その本質的な用途(タバコを吸う・火事の際に火を消す)ではなく美術的な造形を評価される対象となってしまうのです。

筆者が過去に見たライアン・ガンダーというアーティストの展覧会では、レゴブロックの人形や、床に落ちた紙幣などが美術品として展示されていたことがありますが、そうした作品が芸術作品として成立するのは、それがホワイトキューブに展示されているからこそなんですね。

時間という概念の破壊

さてさて、話が逸れましたが進んでいきましょう。次に出てきた空間は先程までの真っ白い空間とは一転してオレンジ色のロウソクと照明によって照らされた緩やかな大階段です。


この作品は直島の地中美術館に飾られている、ウォルター・デ・マリアの「タイム/タイムレス/ノー・タイム」を彷彿とさせます。「タイム/タイムレス/ノー・タイム」は、作品中央に設置された巨大な黒い球体を、天窓から差し込む光が照らしている作品です。この作品は時間の経過とともに、差し込んでくる光が移ろっていくことによって、作品そのものの表情が変化していく作品です。しかし一方でこの作品はVR空間内に構成されたものであり、光はいつでも一定の量で空間内に差し込んでいます。勿論、作品の両脇に配置されたロウソクの火も消えることはありません。

「タイム/タイムレス/ノー・タイム」をオマージュし、そこから時間的な要素と神秘性を排除したこの作品は、VR空間における時間性の排除を強く鑑賞者に印象づける作品であると言えるのではないかと解釈しました。

「タイム/タイムレス/ノー・タイム」ウォルター・デ・マリア 2004 ベネッセアートサイト直島より引用
https://benesse-artsite.jp/art/chichu.html

作品空間への落下/あるいは昇華

続いての空間は大きな霧のかかった大空間です。天井には穴が開いており、そこから瓦礫が今にも落下してきそうな様子で宙に浮いています。そして、床面には深く大きな穴が。
また、穴の下には小さな照明器具のようなものが見えていますね。おそらく下には次の展示空間が広がっているのでしょう。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: VRChat_2023-02-23_21-46-54.905_1920x1080-1024x576.jpg


いかにも天井部の瓦礫がこの穴に向かって落下しようとしていることを想えば、この穴は「落ちるための穴」としてここに穿たれているのでしょうね。
また、このワールドに設置されたオブジェクトに、打ち捨てられたかのような針金や鉄骨といった部材、つまりはゴミのようなものが多用されていることを想えば、この穴はさながら部屋の隅でモノが投げ込まれるのを待っているゴミ箱のようでもあります。

この穴は「落下すること」によって作品空間へとアプローチするという、VR空間ならではの行為を楽しむことができるというだけではなく、落下(あるいは廃棄)という象徴的な行為を鑑賞者自身に体験させることによって、鑑賞者自身を作品へと取り込み、そして作品の一部に昇華しようとする意図があるのではないかと筆者は考察しました。要するに、この穴は私たちと作品の間に成立している、鑑賞者と、鑑賞の対象という関係性を破壊し、鑑賞者自身を作品と同列のものへと変貌させるためのトンネルとしての役割を担っていると考えられるわけです。

ともかく、この穴が穿たれている意図はどうであれ、
他に道はありません。勇気を振り絞っていざ飛び込みます。

「マルセル・デュシャン」に対するオマージュ

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: VRChat_2023-02-23_21-47-32.364_1920x1080-1024x576.jpg


床に穿たれた穴に飛び込めば、布のかけられた椅子と、それを照らす照明が複数配置された部屋にたどり着きます。この布のかけられた椅子はおそらくマルセル・デュシャンの「泉」をモチーフにしたものでしょう。

「泉」とはフランスの芸術家マルセル・デュシャンが1917年に制作した作品であり、横向きに倒した男性用の小便器に「R.Mutt」という架空の人物の署名がなされた作品です。
レディメイドと呼ばれる、大量生産された既製品をそのまま作品として展示したこの作品は、アーティストが手仕事で作品を制作することが当然とされていた当時、ただの便器を芸術品と呼んでよいのかということで相当な物議を醸しました。そして最終的には部屋の隅に布を被せた状態で放置されたという歴史があります。

思えばこのワールドも、序盤から、金網や針金といった既製品(レディメイド)であろう素材が多用されていましたよね。こうしたところからもデュシャンの芸術作品から強い影響を受けていることが見て取れると思います。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: maxresdefault-1024x576.jpg
「泉」 マルセル・デュシャン 1917 CASIE MAGより引用
https://casie.jp/media/duchamp-izumi/


そんな物議を醸したデュシャンの「泉」ですが、先述の通り、ホワイトキューブに置かれた物体はどのようなものでも美術品に見えてくるとはいえ、確かに、既製品の便器を持ってきただけで、「これは芸術品だ!」と言い張るのは不思議な感じがしますよね。
でも、これも立派な芸術作品なんです。なぜこのような既製品が芸術作品なのでしょうか?これにはデュシャンのアートに対する思想が大きく反映されています。

デュシャンは芸術を目で見て楽しむものではなく、鑑賞者自身が思いを巡らせて、その作品が根底に抱える意味や、アーティストの思想を読み解くことによって楽しむものであると唱えました。目で見て楽しむだけの既存の絵画芸術を「網膜的」なものであると批判したのです。そして、その思想は後世に多大な影響を遺し、現代アートの思想に深く根付きました。

要するに、デュシャンは芸術というものを、視覚的なものではなく、観念的なものであると考えたわけです。
ちょうど今筆者がこのワールドに展示された作品に思いを馳せ、その作品の意味に思考を巡らせているように、鑑賞者自身が作品について考えることこそが芸術の正しい姿であるということですね。

そして、こうした考えは後に現代アートの根幹を成す価値観になっていきました。この「泉」に限らず、「現代アート」といえば、「理解できない」「何がいいか分からない」というイメージがある方もいるのではないかと思いますが、これはデュシャンの思想が与えた影響が根底にあるからなんですね。

また、この部屋で椅子を照らしている立方体状の照明ですが、その中に椅子を照らしていない照明が一つだけあります。そして、その照明は、この展示空間に落下してきた鑑賞者を照らすのにちょうど良い位置に配置されているのです。やはり、前の部屋にあった大きな穴に落ち、この部屋にたどり着いた時点で、我々鑑賞者は作品の一部になったと考えてよいでしょう。

デュシャンは現代アートは作品と鑑賞者の対話によって成立するものであると考え、「作品を起点として鑑賞者が思考をめぐらし、そして鑑賞者の中で完成される」とした彼の思想も、このような演出から垣間見えるような気がします。

ダダイズムとメルツバウ

デュシャンの既存芸術への反抗的な姿勢は、しばしば「ダダイズム」という芸術運動の思想と親和性の高いものとして語られます。

ダダイズムについて、詳しくはこちらを参照
ダダイズム|美術用語解説 – thisismedia – thisisgallery

ダダイズムは既存の芸術や価値観の否定と破壊を根底に抱えた芸術運動であり、デュシャンの反芸術的な姿勢と重なるところがあるわけですね。

本章ではそんなダダイズムを代表するアーティストである、クルト・シュヴィッタースという人物を紹介しておきたいと思います。

クルト・シュヴィッタースはライフワークとして、自身の自宅兼アトリエに廃材や石膏を持ち込み、それらを接ぎ合わせることによって、室内空間を丸ごと一つの彫刻作品とした作品を制作していました。
「メルツバウ」と呼ばれたこの作品はインスタレーションの先駆的な立ち位置で語られることの多い作品です。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: Hanover_Merzbau.jpg
ハノーバーの『メルツバウ』 wikipediaより
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e9/Hanover_Merzbau.jpg


このワールドも、序盤から廃棄されたかのような針金や鉄骨といった素材が多用され、インスタレーションが形作られていることを見るに、この「メルツバウ」そして「ダダイズム」という思想からも大きな影響を受けているのではないかと想像できますね。

本ワールド2つ目の作品である、ウォルター・デ・マリアを意識したような作品もそうでしたが、このワールドの作品は既存の価値観の破壊というテーマを常に感じさせてくれます。

そして、鑑賞者自身を作品内部に取り込み、その一部とすることで、鑑賞者自身の持つ既存の価値観や、これまで築き上げてきた時間などを一旦排除し、個人の存在価値を一旦ニュートラルなものに戻そうという強い意志を感じ取りました。

ガラス張りのオブジェ

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: VRChat_2023-02-23_21-48-03.865_1920x1080-1024x576.jpg


さて、次の部屋に移っていきましょう。ガラス張りの展示室に球体と管で構成されたオブジェが展示されていますね。この作品はこれまでの作品たちとは違い、鑑賞者が作品空間に立ち入ることができないオブジェです。そういう意味ではガラスによって切り取られた絵画であると捉えることもできるでしょうか。
ここまででインスタレーションを体験してきた上で、突如立ち入ることのできない空間を見せられると、この作品だけが不可侵で特別なもののように感じられますよね。

ちなみに、この部屋からは、何か作品らしきものが垣間見える通路と、非常口の2つの道が見えます。勿論まだ帰るつもりはないので、次の展示空間へ進んでいこうと思ったのですが、そちらは立ち入り禁止になっており、進んでいくことができません。

仕方ないので、非常出口のマークがついた、真っ暗な空間へ進んでいきましょう。分岐と見せかけて実質的には一方通行になっていますね。どこかで分岐を見落としたのでしょうか・・・?

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: VRChat_2023-02-23_21-48-31.964_1920x1080-1024x576.jpg

入口への帰還。「落下」への心理的ハードルの低下

真っ暗な空間を進んでいくと、間もなく何も見えなくなりました。このまま進んでいくのか…?と不安になっていたら、気が付くと最初の空間に戻ってきているではありませんか。

知ってる天井だ・・・・。


もう一度最初から進んでいくのでしょうか…?いや、ちょっと待ってください。
そういえば、最初に落ちそうで怖いなと思っていた穴がありましたよね。ひょっとするとここに落ちることが正解のルートなのではないでしょうか。一度飛び込んでみましょう。


おぉ!飛び込んでみれば、とても暗いですが、ちゃんと空間がありました!どうやらこっちへ進むのが正解だったようです。

作品を見ていく中で、大きな穴へ自ら落下するという経験を経たことで、落下に対しての心理的な抵抗感が驚くほどに薄れています。最初ならば絶対に穴に飛び込もうなどとは思いませんでしたが、ここまでの体験を経ることによって、「試しに飛び込んでみようかな?」という気持ちが自然に湧き上がるような構成になっていますね。演出の巧みさに脱帽です。

崩壊する階段


さて、落下した先は、暗い浸水した部屋に、クラゲのようなものがたくさん浮いている部屋でした。暗くて写真に写りづらいですが、ガラスのような透明な素材で作られた階段が配置されていますね。上ってみましょう。

階段を上っていると、視界にノイズが入り、階段が崩壊します。
何やら不穏な雰囲気ですね。これまで作品へと昇華されていた廃材たちが、ただの廃材に戻っていってしまうような印象を受けます。さらに、ここまでの演出で、鑑賞者はすでに作品の一部となっています。そう考えれば、この階段が崩壊すると共に、私たちの価値観や存在意義そのものが根底から崩れていくような不快感を感じるかもしれません。

作品の中へ

次の空間は、何やらプール、もしくは廃墟といった様相の空間と、謎の文字盤が配置された部屋に着きます。やはり、ゴミで作られた芸術作品たちが、人の手の離れ、忘れ去られることによって、ただのゴミに戻っていってしまうような感覚がありますね・・。


文字盤についても何かしら考察をしてみようと思ったのですが、筆者の浅識では何も思いつきませんでした…。この部分の考察は読者の方々にお任せしようと思います。何か「こういう意味かもな~」というものがあれば、ぜひ教えてください。

さて、進んでいくと、先ほど通行止めになっていた分岐の部分に戻ってきているようです。
なるほど、ここで最初のルートと合流するわけですね。

というわけで、作品は一通り見終わったのかな~と思い、
ゲートをくぐって、1週目で訪れた部屋に戻ります。すると、大きな音とともに、ガラスの壁が破壊され、作品の内部空間に入れるようになっているではありませんか。



これまでの作品も、基本的には内部空間に入って鑑賞するスタイルでした。なので、展示物のすぐ近くまで足を踏み入れることができるのは特別なことではありません。しかし、この作品に関しては、一度侵入できない作品であることを印象づけられた上で作品の内部空間に入れるようになっています。それによって、この作品に接近するのは、他の作品に接近することとは違って、何か特別な意味を持った行為なのだと印象づけられますね。

一度作品空間と鑑賞者をガラスで隔てておいて、作品をある種二次元的で、絵画的なものとして見せた後、鑑賞者と作品の空間的な隔たりを破壊してくる手法を見て、筆者はルーチョ・フォンタナの「空間概念・期待」を連想しました。ルーチョ・フォンタナは一色に塗られたキャンバスにナイフで傷をつけた作品を多数制作しており、それらに「空間概念・期待」というタイトルを付けました。
フォンタナは、自身の作品について、「キャンヴァスに穴を穿つ時、私は絵画を制作しようと思っているのではない。私は、それが絵画の閉鎖された空間を越えて無限に拡がるよう、空間をあけ、芸術に新しい次元を生みだし、宇宙に結びつくことを願っている。」と語っており、絵画=二次元という固定概念が人々の間にあることを利用し、それをあえて破壊することで、作品をより高次元なものに昇華しようと試みたわけです。

それと同様に、この展示物についても、一度ガラスの壁で隔離された状態を見せることで、「この芸術品は触れられないものである」という認識を鑑賞者に与えたうえで、それを破壊することによって、作品をより印象的に見せる効果を狙ったのではないかと想像しました。

さぁ、作品空間の奥にドアが出現しています。
おそらく、何か核心に迫るものがあるのでしょう。行ってみます。

「Refusave」とは


ドアの先には古びたベッドが。そしてその横には輸血液のようなものが置かれています。
ベッドの上には光のオブジェが置かれていますね。手をかざすと「Save」の文字が出現します。「保存」、あるいは「救済」でしょうか。


それではこの部屋を越えて、光の中へ進んでいきます。
この光を見て筆者は安藤忠雄設計の「光の教会」を思い出していました。
安藤忠雄はコンクリートの壁面に十字のスリットを入れて、光の十字架を作り出すことによって神聖な空間を作り出したわけです。また、歴史的に見れば、ヨハネの福音書でも「光は暗闇の中で輝いている」という文言があります。このように、古くから光を神格化する考え方は一般的なものであったといえます。

光の教会 安藤忠雄(1989) Нет 大阪建築より引用
http://www.hetgallery.com/church-of-the-light.html


薄暗い病室のような空間から、「Save」を経て光の中へと飛び込んでいく。こう考えると、とても神聖な行為のように思えてきますね。この光は、かつてベッドを利用していた誰かを救済するための光なのでしょうか。もしくは鑑賞者自身を救済する光なのかもしれません。

光を抜けた先にはクレジットが出てきます。どうやら作品は以上のようですね。
それでは最後にワールドのタイトルである「Refusave」について筆者なりに考察してみたいと思います。

「Refusave」はおそらくRefuseとSaveを掛け合わせた造語でしょう。
Refuseを「ゴミ」と読むか「拒む」と読むかで様々な解釈ができるかと思います。
「ゴミを保存/救済する」あるいは「保存/救済を拒む」といったところでしょうか。
Saveには保存するという意味がありますが、保存とはある種での停滞を意味します。

廃材をアート作品に利用することで、ゴミとなったものを保存し、そして作品へと昇華することで、存在価値を付与=救済する。
一方で、作品となったゴミは、固定された価値に帰着し、停滞するという構図が本ワールドの根底にはあるように感じました。
このワールドの序盤に、時間性が排除された「タイム/タイムレス/ノー・タイム」を彷彿とさせる作品があったことも、この「停滞」を印象づける一つの要因になっているでしょうね。

そして、2週目では、徐々に作品空間を荒廃させてゆき、最後の部屋で、本質的に「停滞」したゴミ本来の姿を見せて、そこに強烈な光を当てる。それによって、そうしたオブジェクトたちに真の意味での救済を齎すというストーリーを表現したのではないでしょうか。

そして、このワールドの体験を語る上で欠かせないのは、鑑賞者を作品空間に取り込み、作品の一部にしようという試みが随所で行われていた点です。

つまり、このワールドでゴミが作品へと昇華される構図は、そのまま鑑賞者自身の体験として、重ねて考えることが可能なわけです。
要するに、最後の部屋は、ゴミを救済すると同時に、ゴミの中に身を投じ、同様にゴミとなった鑑賞者を救済し、そして高次の存在へと導くための空間であったともいえます。

そう考えると、あの部屋はまるで、人類から高次の存在への進化を描いた「2001年宇宙の旅」のクライマックスで描写された、ベッドと調度品が配置された光に満ちる部屋のように感じられてきますね。

2001年宇宙の旅では、真っ白い室内のシーンを経て、人間は次のステージへと進化し、より上位の知的生命体になっていくわけです。それが、このワールドにおいては、ゴミで形作られた作品の一部に人間を取り込み、作品を高次の存在へと昇華(救済)することで、その一部となった鑑賞者自身が間接的に救済される。という構図で表現されているのではないかと想像しました。

「2021年宇宙の旅」 THE FILM SUFIより引用
http://www.filmsufi.com/2016/08/2001-space-odyssey-stanley-kubrick-1968_16.html

おわりに

以上がこのワールドに訪れた筆者自身の考察になります。かなりの長文でしたが、お付き合い頂きありがとうございました。
私は芸術に特別詳しくないのですが、それでも、このワールドに訪れると様々な憶測や考察が思い浮かんできて、とても楽しむことができました。
かなり見ごたえのあるワールドだったと思います。

また、本記事はあくまでも私自身の考察であり、必ずしもここに書いた考察が正しいものであるとは限りません。
再びデュシャンの言葉を借りるならば、現代アートとは「作品を起点として鑑賞者が思考をめぐらし、そして鑑賞者の中で完成される」ものなのです。
ぜひ皆さんも、自分の足でこのワールドに訪れてみて、そして作品の意味や、ワールド制作者の方の意図に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

もし、本記事がワールドを考察する際の参考資料になれば嬉しい限りです。